2. 雪と氷のサマーハウス
「そっちはまだ寒いか」と、日本を発つ前に電話でトモコに尋ねた。すると彼女は「とっくに暖かい」と言う。「でもコートくらいは必要だろう」と聞くと、「まぁコートくらいはね」と言う。「マフラーはいるか」と聞くと、「マフラーはもちろん、できればスノーブーツもあった方が良い」と答える。「それのどこが暖かいのか」と聞き返すと、「とりあえず摂氏以上にはなっている」と当たり前のように言った。そうした基準であるかと少し覚悟を決めてきたのが正解であった。思った通 り、春とは言い難い北欧の早春である。
それでも、ちゃんと夏は訪れるのだと言うけれど、この景色からではとうてい信じ難い。4月も下旬だというのに、辺りの木々は雪をかぶり海はまだ凍っている。そう、トモコたちのサマーハウスの前に広がるのは、てっきり湖かと思っていたら海の入り江だったのだ。もうすぐ春から夏になれば、ボートを浮かべてのんびり過ごすのだと言う。
「海の上を歩いてみない?」と唐突にトモコが言った。薄氷の割れ目に落ちたりはしないかと引き腰で聞く私に、「まだこの時期ならギリギリ大丈夫でしょう」と簡単に言う。「失敗するのも一興、土産話くらいにはなるだろう……」と思い切り足を踏み出した途端、ただ氷の上を歩くだけのことがなぜこんなに面白いのだろうかと、楽しくてならない覚醒状態に陥っていた。
まさに子供のように駆け回り、はしゃいでいる自分がそこにいたのだ。滑って転びそうになる私の姿をスティーグがデジカメに写 し、雪玉を投げるスティーグを私が一眼カメラで撮る。それをトモコがはやし立てる。いったい子供の頃ですら、こんな無垢な気持ちで遊んだことがあっただろうかと思うほどだ。
おかげで靴の中までビッショリ濡れてしまった。スティーグが乾いたソックスとタオルを貸してくれ、暖かい陽のあたるテラスでハーブティーを飲みながら、トモコ手製のサンドイッチとクッキーを食べた。クッキーには二人の庭で摘んだというブルーベリーの甘いジャムをたっぷり付け、サンドイッチは角を紅茶に少し浸して食べた。
あー、表現のしようもない気持ちの良さだ。確かに、これはもう春の陽射しだ……。いつまでもこうしていたい。何もせず、ただこうしている瞬間を至福と呼ぶべきなのだろう。
ここへは冬の間は滅多に来ることはないのだけれど、夏の2カ月半ほどは、ほとんどここで過ごすということだ。多くのスウェーデン人が、こうしたサマーハウスを持つ理由わけが分かった。
このサマーハウスは、スティーグが彼の父親から遺産の代りに受け継いだものだそうで、一方、彼の兄はもらった現金でクルーザーを買ったという。後日、その兄さんに会った時、彼はこのクルーザーで世界一周をするのが夢だと語った。2人とも、とても澄んだ目をしているのが羨まく思えた。
スティーグの兄のジョンは、何やら芸術関係の仕事をしているらしいのだが、はっきりとは教えてくれず、「彼の最後の職業は、第二次世界大戦での“イギリス軍戦闘機のパイロット”だった」とスティーグが言う。一瞬あっけに取られて聞き返すと、「彼の日課のコンピューターゲームのことだよ」と笑い返された。まぁ、職業や肩書きなど、どうでもいいのだろう。
目次
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プロローグ
第一章 旅立ちの時
- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時
- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時
- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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