10. 流氷の囁ささやきに心奪われ
スティーグが、朝から分厚い地図帳を広げて見ている。ルレオから150キロほど北に行った「カーリック川」の氷が溶けてきたと新聞に載っていたので、流氷を見に行こうと言うのだ。そう言えばこの数日で急に暖かくなり、先週来た時に大はしゃぎして駆け回った氷の海も中程はほとんど溶けてしまい、氷の陸の間に流れる大河のように見えている。
トモコの言うところの、3日間の春がいよいよ近づいているようだ。3日というのは少し大袈裟としても、北スウェーデンの春は本当に短く、青葉が芽吹いて春らしくなったと思っているうちに10日と経たずに夏になってしまうのだそうだ。夏は夏で一人前に暑く、海水浴さえできるというのだけれど、1年のうちで最も美しい季節である春を楽しむ間もないというのは少しつまらない気もする。
さぁ、弁当を持ってお出かけだ!
ヨーロッパ道路(E4〜E10)をひたすら走り、車で2時間近くも北上したであろうか。春の日差しに少しうとうとし始めたあたりでカーリック村に入った。先述したサーメ人=ラップ人たちが住む地域に程近いのだそうだけれど、想像に反していたって普通 の町だ。「まさか今でも(古式の)民族衣装に毛皮をまとったラップ人が歩いていると思った?」とトモコがクスリと笑った。
橋の下に目をやれば、確かに流氷が流れている。でも、このあたりはまだ下流なので氷がみな小さい。もっと上に行こうと再び車を進め、川幅の広い本流が見える場所まで登り詰めた。
本当だ、メインスポットの氷はやはり大きい。大きいといっても氷山ではないのだが、とにかく畳20帖ほどもあるような幅広の氷がどんどん流れてくる。鳥たちはその上に乗って悠々と立ち、「このまま海まで連れていってくれ!」と言わんばかりの横着ぶりだ。
こんな景色は初めてだ……。口をあんぐりとさせて立ちすくんでいる私に、「ほら、聴いてごらん」と、トモコが小声で言った。しゃがみこみ耳を澄ますと、 “シャリシャリシャリ、ポコンポコン”と氷が砕けて触れ合う音が聞こえ、さらに氷の中の空気が出て水泡になる“シュー”という微かな音が囁き声のように聞こえた。
人は壮大な自然を前にした時、言葉を失う。私もその例にもれず、沈黙のままその景色に見とれた。
何か気のきいた感嘆の声を発したくもある。しかし、ほとんど言葉にはならない。この壮麗なる神秘を語るべき言葉など初めからあるわけもなく、それを無理に語ろうとすれば大いなる滑稽になる。もし私の背後にカメラがあり、この景色と私の後姿が重なった時、物を言う私はいかにも愚かしくちっぽけな存在に写るはずであろう。そのことが想像に叶うからこそ、せめて黙っている方が姿としてはましに思えるのだ。
目次
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プロローグ
第一章 旅立ちの時
- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時
- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時
- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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