
10. ダーラナホースに会いにきた
スウェーデンに初めて馬が来たのは、およそ紀元前2世紀頃だという。その頃から、森は“木こり”たちの住処であり、彼らはずっと馬と共に生きてきた。
冬になると木こりたちは森の小屋にこもり、家族たちと離れて暮らす。寒い雪の夜、春になるまで会えない子供のことを思い、手持ち無沙汰に木馬のオモチャを彫り子供の土産にした。それが、スウェーデンの代表的な民芸品となった木彫りの馬、ダーラナホース(ダーラヘスト)の興りになったという。
その原形は7世紀頃には定着しており、家ごとに少しずつ違った模様が描かれた。
スウェーデンに来てこれを買わずに帰る人は珍しい。だが私は、ついぞ買わずに今に至っていた。
発祥地であるファールンまで来ていて、その工場を見ずに帰るわけにはいかない。スウェーデン中のどこの土産物屋に行ってもあるダーラナホースの置き物の全ては、私が今いるファールンから少し北西に行ったヌスネスという小さな村で作られているのだ。
ファールンでの2日目の午後、キレンとのブランチを済ませた私は、ヌスネスへ向かうための地図を本屋で買った。彼女は明日からの計画の準備があるため、残念だがヌスネスには一緒に行けない。大学での彼女の授業は8月から始まるので、それまで数カ月の暇を利用して、友人のやっているNGOのボランティア活動に臨時参加することを約束しているらしい。翌日の飛行機で発ち、イタリア、ギリシャ、オーストリアと回ってくると言う、奔放(ほんぽう)な翼を広げた彼女が少し羨ましくもある。
(中略)
キレンと別れて、私は単身ヌスネスに進路をとった。思ったより遠い道のりだ。
途中、美しい景色に目をうばわれながら運転していると、間違えるはずのない道に迷い込んでいた。いかにものどかな、ど田舎風景の細い道をうろうろしていると、どうやらダーラナホースの工場を示しているらしい看板を見つけた。標示通 りに進むと、(小さな)工場らしきところは休みであった。通りかかった老婆に、ここはヌスネスかと尋ねたけれど、よく日本の田舎道で出会う年寄りと一緒で全く話が通 じない。スウェーデンはヨーロッパで一番英語が通じる国と言われているが、北部の田舎へ行けば行くほど英語を話さない人も多くなるのだ。
それでも、ここは少なくともヌスネスでないことだけは推察できた。そこで、ヌスネスはどっちの方向かと、無駄 と案じつつも聞いてみると、かえって面倒なことになってしまった。でも、そこでモタモタしていたのが良かった。休みであるはずの店の店主らしい男が偶然に車で通 りかかり、親しげに声をかけてくれた。工場の中を見たい旨を言うと快く応じてくれ、裏の方から私を招き入れてくれた。
狭い工場内に、いろいろなサイズの作りかけの製品が積み上げられている。木の香りとペンキの匂いが混ざったような空気感が何とも心地良い。奥の部屋に入ると、ものも言わず目さえ上げずに、小さなダーラナホースを黙々と彫っている老人がいた。店は休みのはずなのに、日々の習慣か、観光時期への追い込みなのか、一所懸命に木片を削っている。
さっきの男が製造工程の説明を丁寧にしてくれた。言葉は分からないが手振り身振りが上手いのでよく理解できた。そして、店も見たいかと彼が言い、商売とはいえ、私一人のために店を開けてくれた。私はじっくりと選び、いくつかのサイズのものを買った。色は赤・青・緑・黒など各色があるが、ちょっと橙(だいだい)がかった赤が最もスタンダードな伝統色だ。
私は、欲しかった玩具(おもちゃ)をようやく手に入れた子供のように嬉しかった。そして何より満足であったのは、やはり工場直販だけあり、ストックホルムの土産物屋に並ぶ同じものよりも、だいたい3〜4割ほども安かったことだ。
店を出た後、改めて探しながらヌスネスへも行ってみた。ほどない、すぐ隣村だった。さっきの店よりもずっと大きな規模の店鋪や工場が何軒も並んでいる。けれど、やはりどこも休みであった。おそらくは組合規定の定休日だったのだろう。とすると、あそこで道に迷い込んでしまったことが幸いし、男に会えたことも幸運だったことになる。もし私が直接ヌスネスに行き着いていたなら、扉の閉まった店を見て諦めて帰るよりなかったことになるのだ。

目次
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プロローグ
第一章 旅立ちの時

- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時

- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時

- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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