1. ストックホルムの光と影
私は、この旅を終わろうとしていた。
7年前に初めてこの国を訪れてから四度目の渡航である今回は、北スウェーデンのいくつかの土地を回ってきた。その二十日間の予定を終え、今、帰途の空港へ向かうために再びストックホルムに来ている。半月ぶりに戻ったストックホルムは思っていた通 り春になっていた。王立公園の桜並木はすでに満開を誇っており、マフラーはとうにいらなくなっている。明日、日本へ帰る私は北欧の短い春に出会えた幸いを喜んでいた。
この前と同じユースホステルに宿をとり、クロークルームに荷物を預けて街へ出た。まだ歩いていない西のあたりへ行ってみたいと思っていた。
ドロットニングガータン(ガータンとはストリートの意)に並ぶ店を眺め、数枚の絵葉書を買い、骨董屋で古いダーラナホース(馬を象った木彫りの民芸品)の置物を買った。土産物屋にある新しいものとあまり変わらない値段であった上に、意外と簡単に値引き交渉に応じてくれたことに、まずまずの満足をしていた。
ストックホルムの中心街“セルグルストーリー”の前で、ストリートミュージシャンたちが演奏をしている。彼等の足元には、小銭の入った帽子が置いてある。
下の広場の方からトランペットの音が聞こえてきた。何か郷愁めいたものを感じ、私は思わず階段を降りていった。その近くで、パンやスープを置いたカウンターの前に人々が群がっている。数人の青年が彼らの差し出す皿にスープを注ぎ、パンを手渡している。
初めは大衆屋台かと思ったが、誰一人として金を払う者もなく、カウンターの上には値札板もない。スープを配る少女が私に微笑んだ。彼女からスープをもらおうとしていた男が私をチラリと見た。彼らの身なりは皆とても貧しい。どうやら、そこは失業者たちの配給所だったようだ。福祉国家、スウェーデンの悲しい現実を見た。
今までも、何人かの浮浪者風の男たちとすれちがったことがあった。私の前に立ち、1クローネくれと威圧的にせがむ男もいた。スウェーデンは今、失業率が急増し、その数はヨーロッパ一位 であると聞いている。しかし、これほどとは思っていなかった。昨日まで、スティーグやトモコ(ビジネス上の翻訳を頼んでいる現地協力者)たちと一緒にいたせいもある。
カウンターの周りには女性の姿さえちらほら見える。カウンターの前で歌を唄っている青年たちの前には、小銭を入れてもらうための帽子もない。失業者たちを励ますボランティアなのだろう。
カウンターのパンとスープはすぐになくなり、じきにコーヒーもなくなった。カウンターは片付けられ、給食を配っていた青年たちもいなくなった。
でも、歌はいつまでも終わらない。その輪は次第に大きくなっていく。メンバーの1人の女性が時々彼らの手をとり、あるいは抱きしめて何かを言っている。彼らはみな泣いているようにも見える。その横を、いかにも派手に着飾った少女たちが通 り過ぎていく。その光景に気付いてさえいないように。
パンとコーヒーをもらい、座りこんでいる若い男に警官が何やら詰問をしている。その警官に別 の若者が抗議をする。他へ目をやれば、ある紳士が浮浪者たちに小言を言っている姿が見える。紳士は指を振りやめようとしない。
新聞記者だと名乗る女性が、私にカメラを向けて声をかけてきた。失業者たちの写 真を撮っていた私を、先刻より気にしていたらしいことを言う。日本人かと聞くので、そうだと答える。ジャーナリストかと聞くので、ビジネスマンだと答える。英語かスウェーデン語は話せるかと聞くので、話せないと答えた。彼女は何も尋ねずに去っていった。
ふと、友達のボランティア活動を手伝うために、これからイタリアに行くと言っていたキレン(旅先で出会った日本人留学生 ─ 委細後述)のことを思い出した。彼女なら、どうコメントするだろうか。
街にいたストリートミュージシャンの若者たちの中にも、失業して仕方なく楽器を弾いている者もいるのかもしれない。でも、音楽を演奏したり、汚れてシワの寄った絵葉書を路上で観光客に売りつけているような連中はまだましだ。何もせず、ただ箱を前にして座っているだけの人さえ何人も見かけたからだ。しかし、彼らは乞食などではない。哀れなだけの失業者だ。5年前にこの通 りを歩いた時には、こうした光景はなかった。
日本の経済評論家は、スウェーデンの経済成長率は世界第5位だと評する。しかし、この皮肉な現実をどう理解すればよいのだろうか。
表通りを歩いているのに、何だか別のストックホルムを見ているような気持ちになった。今日一日でできるだけ多くのものを見たいと思い、足早に歩いていた私の歩速が急に遅くなり、いつしか裏通りを歩いていた。 この20日間、私はいったい何をしてきたのだろうか。森や湖などの雄大な大自然に触れ、各地の旧市街やミュージアムを見物し、古道具屋や土産物屋などをひやかし見ることに時間を費やしてきた。そして今、自分だけの安らぎと満足を探していたにすぎないことを思い知らされた。
パンを与えることばかりが善か否かの評論をここでする資格は私にはない。ただ、この光景を忘れずに心に残したいと思うのみである。
目次
(※青色のページが開けます。)
プロローグ
第一章 旅立ちの時
- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時
- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時
- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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