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政宗に山林六百町歩を献上した男<2>

2019年6月13日(木)02:00
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藤右衛門の父の名は右馬之助《うめのすけ》。けれど、それ以前の残間一族の歴史を秘されるに至ったのは、おそらく、他の統治を逃れて過ごした数百年の事実隠蔽のためと推される。先祖の足跡を明かす事が、身の無事を脅かす世であったのだ。

しかし、また別な考え方をすれば、もしこの時、藤右衛門が一族の由緒《いわれ》を打ち明け、それを政宗が寛大に受け止めたなら、御山守ではなく、従前どおり地頭(荘園領主)として取り立てられたやもという歴史の悪戯も有り得たのかもしれない。

ともあれ、史上にIF《もしも》を求めるは詮無く、時代《とき》は武士《もののふ》たちの力により回っていった。

慶長五年(1600)、〝北の関ヶ原〟とも言われた「慶長出羽合戦」におき一応の功を成した政宗は、大幅な減封《げんぽう》を蒙ったとはいえ奥州六十二万石の安泰を得た。

同十六年(1611)十月二十八日、後に「慶長三陸地震津波」と呼ばれた大地震が陸奥国を襲った。近年における研究の結果、マグニチュード9と推定発表されているので、まさに2011年の東日本大震災と同等のものが、ちょうど四百年前に同じ所で起きていたというわけだ。

すぐさま、藩を挙げての復興大事業は始まった。

既に初冬の風が身に沁みる季節……、そこで先ず必要となるのが、倒壊・流失した領民たちの家屋再建のための材木である。藤右衛門は山林伐採の陣頭指揮を自ら取り、連日、運搬の馬車を連ねた。

当時、材木はいくらあっても足りるものではなく、これこそは、長年にわたり大山林の統治・管理をしてきた残間一族の実力を以ってしか、成し得ない事であっただろう。

△ 慶長三陸地震津波の図

 かくして、板谷の山に再び静かな日常が戻ろうとしていたある日、翌十七年(1612)、一人の戦国浪人が大谷邑《むら》にやってきた。

その者の名は和久宗是《わくそうぜ》、関ヶ原の合戦の際、西軍に与《くみ》したが故の隠遁《いんとん》であった。元は祐筆《ゆうひつ》(秘書)として信長・秀吉に仕えた文官である。

また、かつて秀吉の側近であった宗是は、政宗と秀吉の間を取り持つなどの便宜をはかった事のある経緯から、この時、窮していた宗是を政宗が救ったというのが実のところとされる。

政宗は自分より三十二歳年長の宗是を客礼をもって迎え、大谷邑に二千石の所領を与えた。

それにより、残間家は御山守の任を一旦免ぜられる事になったのだが、何せ山林経営にうとい宗是にとって、七百町歩からの土地と生業を監理するのは困難な事であり、結果として、その補佐役に藤右衛門を頼むに至った。

その頃、もしかすると、宗是が藤右衛門を相手に一献かたむけながら、かつての手柄話や都の様子などを語り聞かせたなどという場面もしばしばあったのやもしれない。

残念ながら、そうした記述を残間家文書に見るものではないが、広からぬ山里に暮らす者同士が何ら親交を持たなかったと考える方が無理であろう。

 この山間の遊仙境で静かな余生を望んでいた宗是のもとに、運命の時が訪れた。宗是が大谷邑に来て僅か二年の後、慶長十九年(1614)のことである。

この十月、大阪冬の陣が起こるやいなや、宗是は豊臣家への報恩を願い、政宗から暇《いとま》を得て大阪へ向かった。(この時、政宗は敵となる宗是に一軍と路銀を与え、かつて秀吉より受けた恩顧への謝徳《しゃとく》を託した。)

結果は歴史の示す通り、見せかけの和睦は刹那に去り、翌年四月、宗是の読みをなぞるように大阪夏の陣は勃発した。

その、最後の決戦となった岡山の戦いの折、宗是は老齢と侮られぬようわざわざ甲冑を脱ぎ、白綾に兜という軽装で敵勢へ突入し見事討ち死にを果たした。享年八十一、老将の本懐である。

 宗是の大阪出陣の後、再び御山守の任は残間家のものとなり、藤右衛門の肩の荷は降りる事を知らなかった。

その頃、前記の災異から宗是の統治以降、山林盗伐の取り締まりが一層厳しく施行されるものとなっており、かつてのように、御山守の役務もそうそう目こぼしばかりはしていられない時勢となっていた。

無論、藩の財産である原木を無闇と乱伐されるに任すわけにいかぬは当然の事ながら、それを逆恨みとする近隣村民も少なくはなかった。

その為、ある晩、数人の男たちに隣里の利府へ呼び出された藤右衛門は、分家の次郎兵衛と共に、酒を飲まされ山中にて謀殺された。

慶長十九年(1614)九月二十一日、宗是が大阪へ向かった直後の非業な末路であった。

その後、御山守の任は二代目藤右衛門に継がれ、時には外敵や亡命者との諍いを余儀なくされつつも、以降、明治二年の版籍奉還まで代々勤め上げられ、現在も尚、家督は連綿と続いている。

さらには、岩切・利府地区に板谷の残間家類族とされる家が多く在ることからも、確かに旧家としての長い歴史がこの地に刻んだ、存在の重みを感じざるを得ない。




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