木曽路にて-3(2009/09/05)
翌朝、名残惜しげに宿を後にし、やはり妻籠宿へと舞い戻ってきた。
本日もまた晴天なり、である。
坂を駆け登り、息咳きって通りにたどり着いた時、私は思わず落胆の溜息をついた。
「いったい何処からこんなに人が沸いて来たのか……」と乱暴な言葉をはきたくなるほどの混雑ぶりだ。
日曜とはいえ、昨晩の静けさが嘘のようであり、「あれはキツネにでも化かされていたのだろうか……」と半ば真面目に考え込んでしまいそうになる気持ちを励まし、私は歩き出した。
通りの両側に建ち並ぶ商店や宿屋に混じり、「本陣跡」などの資料館が軒を連ねている。しかし、考学の為に800円もの大枚を払うほど私は勉強熱心ではない。リーフレットだけをもらい、向いの番傘屋(土産物屋)で無料の解説を聞くことにした。
何かを買おうというわけでもない私へ、店主である老婆はお茶とお新香を差し出し席を勧めてくれ、「うん、これは美味しいカブ漬だぁ……」などと愛想を一つ言うたびに、いくつかの話しを聞かせてくれた。
店を出て、通りはたの水船(みずふね)で手を洗い喉を潤した。
大きな丸太をくりぬいて、そこへ沢の水を引き込んみ、野菜を冷やしたり花を活けるなど、旧くから人々の生活用水とされた水船は、往時を忍ぶ風情のまま今もこうして使われている。
また、古く朽ちかけた看板の類や、半割りにした丸太の内側を削り取っただけの雨樋など、右も左も、ただ眺めているだけで退屈しない。
かくのごとく、古い建物や街並を、骨董品の手入れでもするかのように丁寧に修復し、それを単に保存ではなく、実際にかつてあったような形のまま使い続けていることに、ひたすら感心させられる。
現行の郵便局でもある「郵便歴史館」こと「妻籠郵便局」の前には、明治初期に初お目見えしたという真っ黒な郵便ポストが置かれてある。
その昔、ポストなど見なれぬ庶民たちは、「郵便箱」の文字を「垂便箱(たれべんばこ)」と読み違え、その穴へ尿(いばり=小便)をしたという話があるが、実に愉快である。
さっきの番傘屋で聞いた「一番の見どころ」を探して石段の坂を登った。
およそ500年もの歴史を有する、光徳寺という古刹(こさつ)である。
わずか登りはじめたところで、途端にあの雑踏が消えた。そして、突然の静寂が私の五感を澄ませ、鳥の声と虫の音(ね)、それから、草を渡る微かな風の音が聞こえてきた。
嗚呼……なんと気持ちがいいことか。やはり此処は昨夜と同じ街であるに違いないと安堵した。
しかし、あるはずの寺はない。どうやら私は、一本違う道を登ってしまったようであり、坂の上には、寺の代わりに木造の小さな学舎(まなびや)があった。それは、廃校になった小学校であるらしく、その懐かしいような雰囲気に誘われ、古めかしい石柱をくぐり構内へ足を踏み入れてみた。
いったい、いつ頃まで使われていたのだろうか……。奥から聞こえる子供たちの遊ぶ声に、またもタイムスリプしたかのごとき気分になった。
結局、光徳寺なるものを探しなおす気にもならず、藤村も好物であったという五兵餅を一本食べて車へ戻ることにした。
つづく
To be continued .
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