木曽路にて-1(2009/08/05)
晴れた日のドライブは実に気分が良い。
終わる夏を惜しむごとき、大きく散乱した雲に吸い込まれるように、ハンドルを左にきった。
ハイウェイパーキングの木陰に車を停め、エンジンをきり窓を開けた。ふいに吹く風の音が耳を癒す。
車窓から差し込む陽ざしが、くっきりとした葉影を私の手におとしている。夏がすぎ、太陽の距離が遠ざかるほど、不思議と影が濃くなるような気がするのはどうしてなんだろう……。
あれは、仕事で広島へ出かけた帰りのことだ。
まだ、都会の端くれで右往左往していたころなので、たぶん10年ほども前のことかもしれない。
何となく、そのまま帰路につく気にもなれず、ふと何処かに寄り道をしてみようと思い地図を広げた。
「木曽……そうだ木曽路へ行こう」と考えた途端、子供のように胸がわくわくしてきた。
すぐに高速を降り、国道19号を北東に向かい走りだした。そしてその瞬間、単なる移動が小さな旅へと変わった。
山を眺め花と戯れ、道草を喰いつつ木曽路の入口「山口村」へと辿り着いた時には、すでに陽が暮れていた。
けれど明日は週末……。仕事を忘れ物見遊山に興じよう。道の駅「賤歯(しずも)」に車を停め、後部座席の寝袋にもぐりこんだ。
さて、木曽路である……。
この一帯は、大正期以降すっかり過疎化されていた宿場町を、昭和40年代に地元有志の声で復興させ、古(いにしえ)の風情を今に蘇生させたという処であるらしい。
「馬龍(まごめ)宿」と大きな文字が道ばたの看板にある。山深く険しい坂の続くこの宿場町は、言わずと知れた、文豪 島崎藤村の生まれ故郷だ。
その昔、あまりに急な上り坂ゆえ馬さえ登れず、仕方なく坂の麓に馬をつなぎ、人だけが歩いて登ったという。だから馬の旅籠(はたご)と言われたわけだ。
地名の由来は江戸初期からの起こりながらも、宿場の発祥はさらに古く、郷土史にも判然とは記されていない。
「木曽路はどこも山の中……」と、藤村の「夜明け前」の文頭にあるとおり、なるほど、これはけっこうな登りだ。アスファルト舗装はされているものの、日頃の不摂生が祟る地獄坂である。これでデコボコの石畳に藁草履とあれば、江戸期の旅人にはさぞ大変な難所であったろうことが想像に叶う。一言に中山道と言っても、私が前に住んだ「蕨宿」のあたりとは大きな違いだ。
私は、観光の人ゴミをかきわけながら、界隈をキャッキャとはしゃぐように見物して歩いた。元来、古い町並みや骨董的なものに興味が深い私なのだ。
古民家を再生した土産物店や資料館などをひとしきり見て回り、さらに峠を少し登ったところに小川が流れていた。その脇に小さな水車と石畳の道が見える。旧街道の古道であろう。
釣竿を手に持ち川へ投げ込まんとしていた地元人らしい男に、この石畳は散策コースにでもなっているのか……と、息を整えながら尋ねた。すると男は「この道はセメントで固めた嘘の石畳だで」と言い、「昔ながらの石と土だけの街道跡が見たいなら『新茶屋』の方まで下っていきましょ」と教えてくれた。
礼を言って去ろうとしたところで、男が思い出したように付け加えた。「江戸時代の古い家に興味があるなら、あんた、妻籠(つまご)へ行ってみるずら。馬籠の宿場は戦災で大分焼けてしまったで、今あるのは大かた造りもんの家ばかりだで」と言った。
やはり、信州人は親切だ。私はペコリと頭を下げ、ちょっと得したような気分で、一目散に今来た道を折り返した。
本当に車で行って大丈夫かと思うほどに細い道を入り、やおら眼前に見えたのは、実に地味な正にただの道であった。しかし、その静かな威厳は私を小さな感動へ導くに充分な景色であった。国道や県道に寸断されながらも、何世紀もの時を変わらぬ様子で今に史跡を止めている。有名無名を問わず、幾万の人がこの石畳を踏んでいったことか。想像するほどに胸が高鳴る。
つづく
To be continued .
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