Rolling Stone 転がる石になれ 止どまる花になるな
私にとって久しぶりのスウェーデン行きであった。しかし、だからと言って、ことさらにその風景を文章に残さねばならないという理由はない。本来、言葉や思考を失うためにこそあるのが「旅」だと思うからである。それでも、私は何かの記念(証し?)がほしいと思い、手帳に文字を書き残した。こんな雑記のようなものでも、願わくはいずれ大切な想い出になればいいと思ったからだ。
いつも国内を仕事で旅をしているが、その旅が終りに近づく時、決まって余分な寄り道をする。食いたくもないラーメン屋に立ち寄ったり、見たくもない土産物屋に入っては竹細工を手に取ったりする。帰れば、否応なしに待ち受ける雑多な事柄への無意識の拒絶なのだろうか。
ところが、今回だけは違っていた。帰ってからするべきことがあった。でもそれはいつもと同じだ。会うべき人がいた。それも同じだ。
結局、旅に対する満足度の問題なのだろうと思う。例えて言い替えれば、もっと寝ていたいという春眠のごとき感ではなく、もう充分に寝足りたといった充足の感を究めていたのであろう。
人生の折り返し地点とでも言うべき三十路の最終年を迎えた今、実に後悔ばかりの連続であった自身の半生を、半ば強引に振り返る機会を得た良い時間であったと思える。
ふいに、ストックホルムのガムラスタンで出会ったアンティークショップの婦人の言葉を思い出した。「新しいものはどんどん古びていくけれど、古いものはいつまでも変わることがない」。
人生同様「旅」も同じだと思う。(新聞やガイドブックがそうであるように)新しい情報や知識の多くは来週にさえあせて不要なものになってしまうけれど、古い記憶は懐かしさと共に鮮明さを増していく。この旅で出会った幾人もの人たちの想い出や、胸に焼き付いた眩しい風景はずっと先も褪せることがない。森や湖が、千年前から、そして千年後も変わらないように。
私は子供の頃からずっと、「旅人」という言葉に憧れていた。そして今、いつかヨーロッパ各地の世界遺産巡りの旅ができることを夢見ている。ずっといつまでも旅をしながら暮らしたいと考える時もある。けれども、旅は帰る場所があるから旅なのであり、もしもそのまま永遠の旅が続けば、それは旅ではなくただ苦痛なだけの移動生活となってしまう。
“転石 苔を生せず”、今度いつまたこんな旅に出会えるかは分からないけれど、いつまでも転がる石のごとき“旅人=ジャーニーマン”でありたいと願う。
嗚呼、余情残心。漂泊の想いやまん。
2001年 初夏
残間昭彦
目次
(※青色のページが開けます。)
プロローグ
第一章 旅立ちの時
- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時
- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時
- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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