6. 百年前の花屋は今も花屋
(前半省略)
私は、バス停まで来たついでに街へ出ようと再び歩きだした。港でボートツアーの乗組員たちが忙しそうに出港の準備をしている。「ストックホルムのボートツアーもなかなか面白いよ」とルレオの翻訳者、トモコが言っていたのを思い出し、「ツアーに参加したいのだが」と一人の男に聞いてみた。男は、オフィスが9時に開くのでチケットを買えと言う。9時ならばほどないと思い少し待っていると、係の者らしい人が来たので早速尋ねてみた。すると、今日は土曜だから10時始まりだと言う。ここで1時間も待つ気にはなれない。
何となく歩いているとマクドナルドが開いている。寒さに凍えていた私にはまさにオアシスである。リーズナブルな値段で十二分に満足できるところなどは全く日本と同じで、実に嬉しい。でも1つ問題なのは、スウェーデンのマックではメニューが出されないということだ。カウンターの向こうにある大きな写真を指差して欲しい品目を言葉で告げなければならない。だから、発音が悪いと容赦なく聞き返され、何度も何度も「ハンバーガー、ハンバーガー」と唾を飛ばしながら叫ばなければならないことになる。ハンバーガー屋に来てそれ以外のものを注文するわけもなく、まして外人なのだから少しは手加減してくれても良さそうなものなのだがと思いつつ、抑揚を変えていろんな発音を試してようやく通 じるのが常だ。
しかし、この日は私の唇が寒さのせいでかじかんでいたのがかえって功を奏したのか、舌ったらずの曖昧な発音がどういうわけかすぐに通じた。気を良くした私は「アンド・フィッシュバーガー・ワン・プリーズ!」と言った。すると今度は、その「フィッシュ」の発音がどうしても分かってもらえず、あげく、仕方がないので比較的発音の簡単な「チキンバーガー」に変更して注文させられるはめになってしまった。小心者の自分が恨めしい(でも、もしかすると、スウェーデンにはフィッシュバーガーはないのかもしれない。分からないが)。
ともかくも、温かいハンバーガー2つで空腹を満たし、かじかんだ手をようやく温ませた私はボートツアーのオフィスへ戻った。コースがいくつもあるようなのだけれど、長いコースだと1日がかりになると言うので、湾内を一周するだけの1番短いコースを選び、船尾のデッキへ席を取った。
(中略)
ただ無闇に写真を撮りまくる私に、白髪の男が声をかけた。「俺のと同じ“キヤノン”だな。ちょっと見せてくれ」と立派なカメラを首にさげた彼は私の古いキヤノンを取り上げた。そしてレンズをこちらへ向け「スマイル(笑え)」と言った。それが数少ない私自身の記念写 真になったのだけれど、まったく愉快そうでない苦虫顔が残念だ。
期待通りの美しい景色と気持ちの良い風にあたっているにもかかわらず、早く街へ出て歩きたいと考えていた。昨日の夕方に行った建築博物館なるところが、恐ろしくつまらなかったこともあり、今日こそは感動を求めて存分に街を見物するぞ、と意気込んでフェリーボートを降りた。
港の片隅に停泊している観光用の古いバイキング船は、大がかりな改修工事をしている。これはもちろんレプリカなのだろうけれど、それ相応に骨董品の趣むきをもった勇壮さだ。観光シーズンに備えてのメンテナンスか、あるいは何年かごとの大修理なのか。ともかくも、でかい壁パネルをクレーンで吊り上げての大仕事である。
私が行ったこの時期は、どういうわけかストックホルムの街中で、足場を大仰(おおぎょう)に架設させて改修工事をしている古いビルを多く見かけた。
やはりそうである。変わらないのではない、進歩がないのではない。この国は、努めて古き良きものを残しているのだ。
(中略)
街並や通る人たちの服装は変わっても、そこに建つ家の扉一枚さえ、代々修理しながら護り受け継がれている。誰かが言った、「時と共に住む人が変わっても、百年前の花屋は今も変わらず花屋なのだ」。
今でこそ、人為的に保存されている建造物もたくさんあるのだろうけれど、本来この国の人々は、伝統や文化を守るように、家や家具も同じように継承し愛し続けることを常としてきたのだろう。そして、それこそが誇りなのである。
自国を卑下するものではないけれど、20年、30年でほとんどの家を建て替えてしまうといった、日本の国民性と建築産業の在り方もいかがなものかと思う。世界遺産でさえある、奈良の法隆寺や白川郷の合掌造り家のような、素晴しいものを数多く保持している国なのに……。
古いものを壊して新しい文明を築いてきたからこそ、我が国の経済成長の功が成されたことも事実であろう。しかし、本当に、古いものの上に上手く新しいものを積み重ねることはできないのだろうか。
「新しい水を注ぐには、前の水(古い既成概念)を捨てなければいけない」と言った賢人がいるけれど、正論とは常に悲しくもあるものだと私は考える。歴史を否定し未来が生まれるものかと疑念にたえない。
目次
(※青色のページが開けます。)
プロローグ
第一章 旅立ちの時
- ストックホルムの光と影
- この国との出会い
- 晴天の雲の下
- バックパッカー デビューの日
- 袖すれあう旅の縁
- 百年前の花屋は今も花屋
- 郷愁のガムラスタン散歩
- バルト海の夕暮れ
- 船室での一夜
- これぞ究極のアンティーク
- 古(いにしえ)の里スカンセン
- 過信は禁物-1[ストックホルム発・ボルネス行 列車での失敗]
- そして タクシー事件
第二章 解放の時
- 森と湖の都ヘルシングランド
- 森の木に抱かれて
- 静かなる自然の抱擁
- 小さな拷問
- 私は珍獣パンダ
- ダーラナへの道-左ハンドルのスリル-
- Kiren
- 故郷の色"ファールン"
- ダーラナの赤い道
- ダーラナホースに会いにきた
- ムース注意!
- 白夜の太陽
- 過信は禁物-2[ボルネス発・ルレオ行 またも列車での失敗]
第三章 静寂の時
- 北の国 ルレオでの再会
- 雪と氷のサマーハウス
- 白夜の国のサマーライフ
- 焚き火の日
- ガラクタ屋とスティーグ
- ミスター・ヤンネ と ミセス・イボンヌ
- 田んぼん中の"ラーダ"
- 中世の都 ガンメルスタード
- 余情つくせぬ古都への想い
- 流氷のささやきに心奪われ
- 最後の晩餐-ウルルン風-
- 白夜の車窓にて
- ストックホルムのスシバー
- 旅のおまけ["モスクワ"フシギ録]
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