命こそ宝(ヌチドゥタカラ)
「私は自ら平和を叫ぶタイプではないし、友人と平和や戦争について話す事もありません。何か気恥ずかしいというか、そういう土壌が出来ていないのでしょう。でも、皆が平和で穏やかに暮らせますように……そう願う気持ちはとても共感させられました。そして、これまで〝無関心の一人〟であった私が、空き地のような小さな庭に花を植えてみようと思ったこと、叫ぶことは出来なくても祈る事は出来るということを教えてもらえたこと……どうもありがとうございました」。(長野県・女性)
「あなたの言うように、拳を振るうのではなく花を捧げる、といった反戦行動に私も大賛成です。その思いは充分に皆に伝わるはずだと思います……」。(東京都・男性)
「地球は色んな憂いに満ちている。武器で更にそれを増やしてどうなるでしょうか。世界中の軍事費を費やせば少しはその憂いが減らせるかもしれない……」。(岡山県・男性)
「私は長崎出身の被爆者二世です。これまで私は、平和への考察は戦争が生み出す惨劇と向き合うところから始まるものと考えていましたが、本当はそればかりではないのだという事を知りました……」。(長崎県・男性)
「増えすぎた人類は戦争という形で淘汰されなければいけないのでしょうか……。そんな事はないですよね。多くの人が集まれば集まっただけ、多くの英知が産まれるのだから、きっと平和な世の中ができるはずだと信じたいです」。(長野県・女性)
「私は今、長野市に住んでいる小学六年生の女子です。そして、私も八月六日生まれです。私が生まれた時から四十六年と二分前、広島に原爆が落ちました。その事もあって、私は平和について深く感心を持っています。それで、今年の夏休みに広島へ行って原爆ドームを見てきました。心が痛んで言葉では表せないくらい悲しくて、とても辛かったです」。(長野県・女性)
ありがたいことに、私の古いレポートを目にされた方々から時々お手紙やメールを頂くことがある。それを読んでいると、意外なほどに皆が平和貢献に無関心ではないことを知らされ、このレポートを書いた事が決して間違いではなかったのだと確信できる想いを得ている……。まさに〝筆ペンは剣よりも強し〟という事だろうか。
そんな陰の応援団のある人から、2001年の春に101歳の天寿を真っ当して世を去った、沖縄(伊江島)の平和活動家、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんという方の存在を教えられた。その人は生前、養女の謝花悦子(じゃはなえつこ)さんによくこんな話をしていた……。
「通常、人の指は5本ある。でも、その指はどれも形や長さも違えば力も違う。そうした立場が違うから呼び名も違う。けれども、何かを書いたり仕事をする時には、それぞれの指に別 々に命令などしなくても、ちゃんと理解し協力しあって目的を果たす。しかも、その事を済ませた時に威張る指はいない。
親指と威張ったところで、一本では何もできない。力の弱い小指とてイジメてはいけない。ちゃんと役割を果たしているのだから……。同じように、人間にも弱い人強い人があって当然だ。人間の社会が、この五本の指から学ぶことができるなら、きっと平和は創れるはずだ。平和を創るということは、譲り合い、助け合い、教え合い、平等に生きることなんだ。そうして、皆が幸せになることを平和と言うのだ。
人間が起こした戦争は人間によって消さなければならない。戦争を作った人間なんだから平和だって創ることが出来るはずだ。これから生まれてくる子供たちを平和で安全な社会に迎えるのが、今生きている者たちの責任だと私は思っている」。
その阿波根さんが逝く前、最後にこう言った。 「まだ、平和が見えない。私は、あの世に行っても平和運動をやらなきゃならないのかなぁ」。
この意志を、謝花さんたち一部の人だけではなく、私たち皆で引き継ぎ、諦めず行動して行くべきではないだろうか。決して気負うことではないけれど、やはり、そんな意識をいつも持っていたいと思う。
(阿波根さんは「ヌチドゥタカラの家」という反戦平和資料館をつくり、現在は謝花さんが館長を務めている。※ヌチドゥタカラとは沖縄の言葉で『命こそ宝』という意味だ)
それにつけても、あの沖縄本土戦では民間人の半数が死んだと聞く。米兵が映したその映像をテレビで見た。
傷を負い、泥にまみれ恐怖に震えが止まらない幼女。銃弾に倒れ、崖を人形のように力なく転げ落ちる老人。火炎放射器の炎に焼かれる残忍きわまる無惨な人陰。我れ先にと、断崖絶壁の岬からためらうことなく身を投げる女たちの姿。
民間人に偽装しているやも知れぬ日本軍兵士の奇襲に恐れ、米兵たちは軍民かまわずの無差別 攻撃を見舞った。それに加え軍部側は、「戦陣訓」にいわれる「生きて虜囚の辱めを受けず、云々」の言葉を楯にし、「絶対に捕虜になってはいけない。捕虜となるより、死ぬ ことこそ神国の民の誉れである。捕虜となれば、耳や鼻を削がれ、戦車でひかれて殺される。女ならば、強姦の恥辱の上で刺し殺されるのだ」と吹聴し、その噂を真に受けた島民たちが、こぞって自決していった。
そうした人たちの屍の骨が、今もその大地に、浜辺に、サトウキビ畑の土の下に無数に埋まっている。それが、阿波根さんたちの生きた沖縄という島々である。
そして60余年を経った今もなお、米軍基地や自衛隊などの戦争施設は、一向に土地を返そうとはしない。
忘れてはいけないことを忘れなければならない……と、私は言いつづけている。その考えに変わりはない。次代の子供たちに、同じ辛さを共有させるのは忍びないものだから。
けれど、やはり私は、消すことのできないあの事実を、忘れずに覚えていようとする者の一人でありたいと思う。
目次Contents
プロローグPrologue
第一章「戦争を見つめる」
- 原爆の爪痕 長崎原爆資料館にて
- 広島の黒い空
- 赤と黒だけの世界
- 悲惨な戦争
- 扉は必ず開かれる
- ケネディの遺言
- 共感共苦
- ソクラテスの憂鬱
- 一番になりたい症候群
- 天下の御意見番
- 大地の子
- 何ゆえの犠牲
- 鍬と胸飾と笛
第二章「平和を考える」
第三章「未来(あす)を望む」
- 平和への入口
- 音楽が伝えるもの
- 心のとまりぎ 安曇野平和芸術館の構想
- 泣けることの幸せ
- 無量の感謝
- 心の蘇生
- フラワーチルドレン
- あなたへ花を捧げたい
- 命こそ宝(ヌチドゥタカラ)
- 打ちそこねた終止符
- 炭坑のカナリア
- すれちがう言葉
- 確かな言葉
- 歓喜(よろこび)の歌
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