戦いのトラウマ
母の家に帰ると、仏壇の前に一枚の写真が飾ってある。
私がまだ子供だった頃、金沢(兼六園)に家族旅行をした時のものだ。そこには父も母も兄も一緒に写 っている。
どうしてこんなものを……と思ったけれど、これが家族四人で撮った最後の写 真であることを私はすぐに思い当った。
母もまた、あの頃のことを大切に想っているのだろう……。
いつであったか、母は夢を見たと話してくれた。三才つ四才つの私たち兄弟を両の手に引き、どこかの道を親子四人で歩いている夢だったと。
憎しみあって別れたはずの父のことをも、今では懐かしんでくれているのか……。
私には一才上の兄がいる。これまで兄弟仲は非常に悪く、長年全くというほど交際はなかった。言うなれば「冷戦状態」と言ってもいい。それでも、幼少の頃は兄の後を就ついてまわり慕った時期もあった。しかし、年子(としご)などというものは物心がつくにしたがい、お互いにライバル意識のような自我を持つものだ。それで、しょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をするようになる。当然、仕方のないことであり、それを大声で叱りつけのも親の勤め。どこの家にも見られる珍しくもない光景だ。
しかし、たまの日曜、家にいる父にはそれが我慢ならず、遂には兄と私の間にポンと包丁を投げ込み、「お前ら、そんなにやりたきゃ、どっちかが死ぬまでやれ!」と怒鳴るような人だった。さすがにその場の喧嘩はおさまるのだけれど、そうした事が不完全燃焼のストレスとなり、私たち兄弟の仲はどんどん険悪になっていった。
そんな押し付け教育を通した父は、自分が理想とする家族や親子というものを演じるのに必死であり、それが成らない事へのジレンマにイラだっていたのだろうと想像する。
それにしても、兄とは体力では勝負にならず、その代わりに私は理論武装を身につけた。当時流行りの学生運動よろしく、兄の非と自分の言い分をとにかく怒鳴りまくるのだ。いよいよ頭に血が昇った兄は私を布団にくるみ、それこそ殴る蹴るの袋叩きの目にあわせる。顔中コブとアザで鼻血は止まらず、歯を折られたことも度々だ。それでも、後で母に攻められる兄は「俺は確かに暴力をふるったが、こいつは俺に言葉の暴力をふるったんだ!」と豪語してはばからない。こうなるともう、力と意地の張り合いで互いに受け入れようもなくなる。
それで私は、中学に上がると柔道部に入った。別に兄への報復を企んでのことでは毛頭ないのだが、いくらか力をつけたある日、また兄と大喧嘩をした。私はすかさず、殴り掛かる兄を〝体落し(たいおとし)〟で投げ飛ばし〝袈裟固め〟で押さえ込んだ。それから、兄の腕を自分の膝で殺し関節をきめた。
経験のある人でなければ分からないのだけど、柔道の関節技をきめられるというのは、それこそ息も出来ないくらいの痛みと苦しさなのだ。そうして兄を反撃できなくしておいてから、私は兄を上から見下ろし懇々と説教をするのだ。これは兄としては居たたまれない。そうでなくても、幼い時からずっと「長男は偉いんだ、弟は兄を尊え」と父から教育を受けてきたものだから、それこそ大変な屈辱であったろうと思う。
一方私としては、一つしか歳が違わないのに何故そうまで格差をつけられる道理があるものか……と憤懣やるせなく、その大いなる自我を爆発させずにはいられなかったのだ。
いずれにしても理屈や正論で解決できるものではなく、おそらく兄は、そのことをずっとトラウマにして堅く固めてしまったのではないだろうか……。
身体の成長と共に、本当に刺し違わんばかりの激しさで憎みあう仇かたき同士となった私たちは、感情の上では完全に他人以下の関係になっていた。
それでも血は争えないのか……、厄介なことに、歳を重ねるごとに私の顔や声までもが兄に似てきてしまい、それ故、鏡を覗くたびに憎き兄を思い出しては嫌悪し、はては写真に写る我が顔に白い紙片を貼りつけるほどの病的症状までをも呈していった。
そしてさらに、夢の中でまで兄の攻めを受け、その兄の姿と声が頭の奥にこびりついて離れず、「ぅわぁー、いいかげんにしろ、やめてくれ」と叫び現つつに戻されることも度々であった。
まさに一触即発、大人になってからの私は、今度兄に会って何か諍いさかいでもあろうものなら、もしかしたらヤツを殺してしまうのではないかと思い恐怖した。
私は生涯兄への憎しみを癒すことはないだろうと信じ、また、それでも良いのだと諦めていた。
……しかし、それは違った。
ある出来事を切っ掛けに自分の心の内を観た時、私は猛烈に自省し涙を流した。
互いにわだかまった我執を捨て、兄を抱きしめ許しを乞いたいと願った。
勿論その時だけで全てが解決されたわけではないけれど、私の心に潜んでいた確執の半分ほどが一気に払拭されたような明るさを得た。千歳(せんざい)の闇も一本の灯明により即座に晴れると言うごとく、まさにそんな気持ちだった。
一灯の薄明かりを得てより、しばらくの時を経たある年の初秋、突然父は他界した。
逝く間際まで父が最も望んでやまなかったことは、取りも直さず私と兄との握手であったに違いない。
その、亡き父の置き土産なのだろうか……、兄を憎み否定する想いばかりに固執していたはずなのに、幼い頃、イジメっ子たちに仕打ちされる私を兄がかばい助けてくれたこと、神社の境内で二人きりの隠れんぼをして遊んだこと、自転車の乗り方を教えてくれたこと、そして何より、頼るべき唯一人の兄弟であったこと……。心の奥底に追いやり、すっかり忘れていたはずの記憶が、懐かしい父の思い出と交差しながら鮮明に蘇ってきたのだ。
私はひたすらに驚いた。あんなにも憎み嫌っていたはずの兄が、今私は愛おしくてならない。
そう想える何かの切っ掛けといえば、皮肉なことに、父の死以外に他はない……。
以来、兄や父母の夢をよく見るようになった。
調理師の免状を持つ兄が、昔住んでいた家の台所に立ち、旨そうな料理を作って私に手渡す。そして父や母と共に四人で食卓につき、一つの皿を廻しながら歓談する……。あるいは家族で旅行をし、枕を並べて話しながら寝ていたりもする……。テレビを観ている……、風呂に入っている……、電車に乗っている……。
とにかく、夢の中のそんな他愛ない時に無性の至福を覚えるのだが、思えば、もう30年以上もの間、家族四人がそろって食事をしたり、まして旅行に行く事など一度もなかった……。だから、全てはあるはずのない架空の想い出を夢で演じているわけなのだけれど、どうしてだろうかと夢から覚めた私はいつも考える。
おそらく私は、あの頃から……、家族が壊れたあの日からの人生を夢の中でやり直そうとしているのに違いない。そう、失った家族の絆を取り戻そうとしているのだ。
あの頃というのは、私と一緒に暮らすのを嫌った兄が家を出て、父母が離婚の危機を繰り返し、私が強い反抗期をむかえようとしていた時だ……。
私自身、あれほどの厳しいトラウマを容易く克服し、今こうして互いの居を行き来できる現実を不思議に思う。顔を見るのさえうんざりと思ったはずの兄と、「それじゃまた……」と手を振る瞬間、互いの目を見ながら薄ら寂しいような愛おしさを覚えるのは何なのだろうか……。
我が恥辱をさらし、それになぞらえることが正しい表現であるとは思わないけれど、今もなお紛争を続けている(二十六ケ所もの)国や地域の実状を見るにつけ、彼らは問題のトラウマを本当に探そうとしているのだろうか……と心配になる。
真に和解を望むのなら、憎しみを捨てるのは先ず自分からでなくてはいけない。相手が変われば、相手が改めればと非難ばかりせず、自分が先に相手を許すことなのだ。そして、自己を正当化したり防衛する言動をやめ、先に掘りを埋めてしまえ。そうすれば、相手もきっと同じことをするに違いない。
そのことを私は、私自身の心の内に潜んでいた悪魔と、私を育てた家族から教わった。
目次Contents
プロローグPrologue
第一章「戦争を見つめる」
- 原爆の爪痕 長崎原爆資料館にて
- 広島の黒い空
- 赤と黒だけの世界
- 悲惨な戦争
- 扉は必ず開かれる
- ケネディの遺言
- 共感共苦
- ソクラテスの憂鬱
- 一番になりたい症候群
- 天下の御意見番
- 大地の子
- 何ゆえの犠牲
- 鍬と胸飾と笛
第二章「平和を考える」
第三章「未来(あす)を望む」
- 平和への入口
- 音楽が伝えるもの
- 心のとまりぎ 安曇野平和芸術館の構想
- 泣けることの幸せ
- 無量の感謝
- 心の蘇生
- フラワーチルドレン
- あなたへ花を捧げたい
- 命こそ宝(ヌチドゥタカラ)
- 打ちそこねた終止符
- 炭坑のカナリア
- すれちがう言葉
- 確かな言葉
- 歓喜(よろこび)の歌
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